史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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栄国寺(浄土宗西山派)

今年三月、所用で大阪へ行った帰途、かねてから気にかかっていた「河内のキリシタン」の史跡が今、どのようになっているか知りたくあえて一泊してJR片町線(学研都市線)沿線の心当たりを散策してみました。

河内のキリシタンの話がフロイス「日本史」にかなり詳しく記録されているにもかかわらず、数多いキリシタン遺跡巡礼書の中で河内について触れているのは私の知る範囲では皆無といってよいでしょう。太田淑子編「日本史百科 ・キリシタン」(東京堂出版)にも、一ページ未満で簡潔に分りやすく紹介されている程度です。

ここでいう河内国とは、大阪市の東側の山沿いに南北に広がる地域のことで、五畿(大和、山城、河内、和泉、摂津)の一つです。今では信じられないことですが、当時はここに長さ四、五里(あるいは長さ二里以上、幅約半里)の大きな淡水湖(深野池)があったといいます。
大昔、大阪平野が湾や潟であった頃の名残の湖沼で、大和川付替え以前まであったといわれます。この湖と東側に南北に横たわる生駒の山並みの間を南北に東高野街道が通じ、これを見下ろす飯盛山(三一四・三メートル、大東市)に永禄三年(1560)河内を制圧した三好長慶が居城を定め、全盛時には畿内及びその近隣 ・四国まで支配しました。

  十六世紀後半、三好氏に属し飯盛山の麓に城を構える戦国武将たちは、次々と熱心なキリシタンに改宗して行きました。ロレンソ、ヴィレラ、アルメイダ、フロイス、オルガンテイーノなど初期のキリスト教宣教師達がしばしばこの地を訪れました。都・豊後間を往復する場合にも堺の港で船を乗降しましたから、都・堺間の陸路にあたる河内を必ず経由したのです。

信長の時代に河内のキリスト王国は発展を遂げますが、秀吉の天下になるとキリシタン武将達は国替えさせられ、残された住民は異教徒の国主の下で迫害を受けるようになり、歴史上から徐々に消えて行きました。